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知性について

おはようございます。

医師のキャリアプランを中心に

転職、開業、経営シーンで支え続ける

ジーネット株式会社の小野勝広です。

 

人を信用するか、しないか、の判断基準は

人それぞれだとは思いますが、

知性があるかどうか?は

かなり大きなウェートを占めるのではないかと考えます。

本日のブログのタイトルは、

【 知性について 】 といたしました。

本書をピックアップした理由

「 知性について 」

ショーペンハウエル 岩波文庫 を読みました。

本年最後の書評ブログです。

いや~今年もよく本を読みました。

ざっと見たところ77冊になるのかな。

ホントは1年に100冊くらいは読みたいのですが、

なかなか簡単ではありませんね…。

え~、さて、私の読書のテーマは

人を知る、社会の仕組みを知るという事であります。

となると哲学はやはり欠かせません。

そうは言っても哲学は難解です。

さすがに哲学ばかりを学ぶ訳にも行かず、

でもそれなりの頻度で読んでいる方だと思います。

今回は知性について。

最近、私は知識よりも

知性や知恵の方が重要だと感じる事が多く、

しかもショーペンハウエルの本は初めてですので

読み切れるかな…と若干不安な思いもあったのですが

思い切ってチャレンジしてみました。

目次

・哲学とその方法について

・論理学と弁証法の余論

・知性について

・物自体と現象との対立についての二三の考察

・汎神論について

感想

思っていたよりは難しくはなかったですが、

そうは言ってもわかりやすいというものでもなく、

哲学の本としては読みやすい方かもしれません。

ただショーペンハウエルのスゴさというのは、

格調が高く、自然に、浅くなく深すぎもなく、という

適度なバランスが調和されている事のように感じました。

ご自身でも「天才とは

シンプルな単語で深遠な内容を語る」と言ってますが、

まさにショーペンハウエルの文章は天才的だなと感じました。

それではここからはいつもの如く、

私がグッときた箇所をご紹介いたします。

普遍的な事柄へ向かう認識だけが、

意志から解放された認識にとどまりうるのであって、

個別的な物事は、これに反して、

意欲の対象であるからである。

(P.10)

哲学するために最初に求められる二つの要件は、

第一に、

心にかかるいかなる問いをも

率直に問い出す勇気をもつということである。

そして第二には、

自明の理と思われるすべてのことを、

あらためてはっきりと意識し、

そうすることによってそれを問題として

つかみ直すということである。

(P.11)

哲学者の著作は、

読者の考え方をすっかりくつがえそうとするのであり、

読者がこの種のものに関して

今まで学び信じてきた一切のものをみずから誤謬とし、

それに費やしてきた時間と労力を無駄と断じ、

そしてはじめから出直すことを読者に求める。

(P.14)

全体として見渡すならば、

あらゆる時代の哲学は時計の振り子のように、

合理主義と照明主義の間を、

すなわち客観的認識源泉の使用と

主観的認識源泉の使用との間を、

行きつ戻りつ揺れ動いているというように

見立てることができる。

(P.19)

これらはみな、普遍的真理であって、

そこからきわめて多くの個別的真理をみちびき出し、

それによって当面の諸現象を説明し、

あるいはまたかような現象を

直接の目撃以前に予想することができる。

道徳や心理の領域における普遍的真理も、

これに劣らぬ価値を有する。

(P.39)

われわれが自説のために提出していた証明は、

実際まちがっていたが、

しかしそれとは別に正しい証明が存在している、

ということさえ、ありうるのである。

こういうことを感じているものだから、

誠実で真理を愛する人々でさえ、

もっともな議論にもなかなかすぐには譲らず、

なおしばらくの抵抗を試み、それどころか、

反対論証によって

彼の説の真理性がすでに疑わしくなってしまったときにも、

なおしばらく自説に固執するものである。

そういう場合の彼らは、

自分で守り切れなくなった陣地を、

それを承知の上で、なおも援軍を期待して

しばらく守りつづけようと努めている将軍のようなものである。

すなわち、彼らはとりあえず拙い論法で防いでいる間に、

やがて立派な論拠が思い浮かぶか、

さもなければ、論敵の論法の見かけ倒しが

みえすいてくるかも知れないと希望しているわけである。

(P.56~57)

単なる時間はいかなる物理的効果をも生じえない、

従って時間だけでは、

物体の静止と運動に少しも変化を加ええないということであるが、

このことからしてすでに、

時間は物理的実在ではなく、

先験的な観念的存在であり、

従って事物からではなく、

認識主観から発現するものであるという

結論が出てくるからである。

(P.67)

時間といえば、

いかにもわかりきったことのように思えるので、

われわれはもともとそれをはっきりと意識することがない。

われわれが眼を向けるのは、

時間の中で起こるさまざまな変化の経過だけである。

これらはたしかに、

まったく経験的に認知できるものだからである。

してみれば、とにかく時間そのものに純粋に直面し、

そして見ることも聞くこともできないこのもの、

しかもおよそ現実的に存在するためには

一切がその中へ立ち入らなくてはならないこのもの、

そして仮借のない一律さで前へ前へと進み、

いかなるものによっても微塵もひき停められず

急がされもしないこのもの、

それは一体何者であるのかと、

十分な意識をもって問うだけでも、

すでに哲学的教養の著しい一歩を意味することなのである。

(P.72~73)

われわれの認識はわれわれの眼のように、

もともと外部だけを見て、

自己の内面へ向かわないものであるから、

認識する者が内面へ向かって自己自身を認識しようとすれば、

その眼はまったくの暗闇をのぞき、

完全な空虚の中へ落ち込むことになる。

(P.79)

おなじ物を長く見つめていると、

眼が鈍くなって、

もう何も見えなくなる。

それとおなじように、

知性もおなじ事柄を打ちつづき考えていると、

それについてもう何も発見したり

理解したりすることができなくなる。

あまり長い間ひとつのものを見つめていると

輪郭がぼやけて、

何もかもかすんでくるように、

ひとつの事柄を長く考えつめているときにも、

すべてがこんがらがってくる。

こういう場合には、

一旦それから目を離さなくてはならない。

そしてそのあとで再びそこへ立ち帰ってみると、

こんどはそれがはっきりした輪郭で鮮かに現れてくる。

(P.88)

人間の知性がいかに狭く貧弱なものであるか、

意識の明るさがいかにかすかなものであるかということは、

次のことからおしはかることができる。

すなわち、果てしない時間の中に投げだされている

人生の束の間の短さや、

われわれの生存の難儀さや、

いたるところから押しよせてくる無数の謎や、

かくも多くの現象の意味深い性格や、

しかも人生の事毎に物足りぬ有様や、

これらすべてにもかかわらず、

万人がいつもたえず哲学しているわけではなく、

多数の人々とか、

せめて幾人かとか、

ごくわずかの人々とかいうのでさえなく、

ただ時折ひとりずつ、

まったくの例外的人間だけが哲学しているにすぎない、

という事実である。

(P.96)

実際、われわれの思想のうちで最良のもの、

もっとも含蓄のゆたかな最深のものは、

突然、インスピレーションのように、

それもしばしば始めから重厚な格言のような形で、

われわれの意識にのぼってくるものなのである。

それらが、長い無意識の省察と、

細目は忘れているがしばしば遥か以前にさかのぼる

無数の着想の結果であることは、明らかである。

(P.99)

世界にぎっしり詰まっている厄介なぼんくら頭たちに

何が本当に欠けているのかというと、

それは二つのよく似通った能力で、

すなわち判断力と、自分の思想をもつ能力である。

けれどもこれらが彼らにどの程度欠けているかは、

彼らの仲間でない人には容易に想像もできないくらいである。

だからまた、

彼には彼らの存在のみじめさ、

あらゆる愚純が悩む自己嫌悪が、

よく理解できないわけである。

(P.110~111)

すべての詩作や思索は、

いわば小人たちに

大きな頭をとりつけようとする試みなのであって、

それがすぐさま成功しないのも、不思議ではない。

作家が与える楽しみというものは、

いつも、彼の考え方と読者のそれとの間にある

調和があるということを前提条件としており、

この調和が完全に近ければ、

それだけ楽しみも大きくなるものなのである。

だから、偉大な精神は、

もうひとりの偉大な精神によってのみ、

あますところなく完全に未解されうるのである。

(P.111)

何か新しい、もしかすると真実な言葉や思想に接したときに、

それがつまらぬ本の中でみつかったとか、

馬鹿者の口から聞いたとかいう理由で、

それをみくびってはならない。

その本はそれをよそから盗んできたのであるし、

この馬鹿者はそれを聞きかじってきたのであって、

双方ともそれを白状しないだけのことなのである。

その上、スペインのことわざに

阿呆も自分の家なら、

よその家にいる利口者より、

勝手がわかると言っているように、

自分の専門のことなら

誰でもわれわれよりよく知っているものである。

さいごにまた、盲の鳥でも、

時には米粒にありつくことがある。

それどころか、

人々の精神の中には、

彼らが知らずに持っている秘密があるということさえ、

真理なのである。

(P.111~112)

物事を適度に加減して理解することのできる人にならば、

天才と凡人の関係を次のように言い現わしてみれば、

おそらくもっともはっきりするであろう。

すなわち、天才とは、

二重の知性を具えている人間のことである。

そのうち一方の知性は自家用のもので、

彼の意志に仕えている。

そして他方は世界に向かっていて、

世界を純粋に客観的に把握してそれの鏡となる。

この把握の集約もしくは精髄は、

彼がそれに加えてどのような技術的修練を積んでいるかに応じて、

芸術なり詩なり哲学なりの作品の中で再現される。

これに対して通常人は、

右に述べた第一の知性を具えているだけで、

天才の知性を客観性の知性とよべば、

これを主観的知性となづけることができる。

(P.129~130)

彼が真価のある偉大非凡なものを生みだすことができるのは、

自分と同時代の人々の流儀や思想見解などをまったく無視し、

彼らが賞めそやすものを軽蔑するからにほかならないのである。

この高慢さをぬきにしては、

偉大な人物というものは、ありえない。

そしてたとえ、彼の生活と活動とが、

彼の真価を認識しえない時代にめぐり合わせたにしても、

彼はどこまでも彼自身なのであって、

そういう境遇におかれた場合の偉大な人物の姿は、

みじめな宿場で一夜を過ごさなくてはならなくなった

高貴な旅人に似ている。

夜が明けると、彼は快活に旅をつづけていく。

(P.140)

知性は意志の客観化された形に属するものとして

意志から生じてきたものであるから、

知性はまた意志に役立つためにのみ存在している。

(P.168)

世界には単に物理的な意義があるのみで

道徳的意義はないという右の思想こそは、

精神の最大の倒錯から生じてきた、

どうにも救いようのない誤謬なのである。

(P.175)

えっと、長くなってしまい恐縮ですが、

上記をじっくりと読み込んで頂くと

感じるものがいろいろあるのではないかと思います。

他にもいくつも紹介したい文章があるのですが、

この辺で止めておきます。

もし上記に感じるものがありましたら

本書をお読みする事をお勧めします。

評価

おススメ度は ★★★★★ と満点といたします。

私は今更ながらですが、

本書を読んで哲学が少しわかったように思います。

そして知性という言葉とその意味は知っていても、

知性について深く考えた事がなかった事を

ヒシヒシと感じさせられました。

しかし本書を読む事で、

これから知性という言葉の使い方が変わってくると思いますし、

また知性的な人という評価の基準も変化するでしょう。

私たち1人1人は意志を持ち、

その意志に従って日常生活をしている訳ですが、

もし意志の先にある本物の知性を手に入れたなら

さらに充実した暮らしができるのではないか?

そんなヒントが本書には散りばめられていると思います。

ショーペンハウエルの著書はまた読む事になるでしょう。

実に良い勉強になりました。

それでは、また…。

 

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